2005年2月4日に結成された「九条の会・豊中いちばん星」。呼びかけ人はみんな普通の市民です。そんな私たちの平和への思いや日々感じた事を自由に書いてみました。


 

夜空の星に

夏休み、私は息子と大山の麓で星を見ていました。「あれが彦星」「あれが織り姫」「天の川」子どものようにはしゃいで見上げた夜空は澄み渡っていました。ふと思ったのは60年前、母は夜空をどんな思いで見上げていたのだろうということです。
毎夜毎夜の空襲警報、父は軍需工場に単身赴任、老いた祖父母と赤子の私を抱えて、どんなにか心細い思いだったでしょう。そしてついにやってきた大空襲。防空壕の中での恐怖の時間。その中で息絶えてしまった隣家の老婦人。燃えさかる炎の中、命がけの脱出。幼い日から繰り返しきかされた母の戦争体験です。当時日本中のあらゆる町でおこっていた地獄の話です。
母は幸い生き延び、60年間平和な夜空を見ることが出来ました。しかし、今日もこの夜空を恐怖の思いで見上げている大勢の人々がいます。イラクでパレスチナで・・・。
身を守るすべを持たない人々を襲う死と暴力=戦争
いつの日か戦争がこの地上からなくなるように願いを込めてもう一度星を見上げました。
(2005.8.21 熊野 以素)


88歳の日高六郎さんに励まされました
7月31日(日)大阪市福島区民ホールで行われた日高六郎さんの講演会に参加しました。「日本国憲法」の映画上映に合わせての講演・・・ほぼ30年ぶりにお話しを聞きました。

 
べ平連世代の私は、とにかく権威がきらいなので、どのように優れた学者であってもそれだけでは尊敬できません。行動する知識人として、さらに教授ではなく教員という言い方にこだわるなど、生き方も含めて日高さんは私が心から尊敬する数少ない人です。 でも88歳になられたと聞き、少し心配。司会が紹介する中、拍手に迎えられて登場したのは杖を付き、足を引きずる老人・・・演壇に座り込み、なかなか言葉が出ない・・・大丈夫かいな(>_<) と非常に心配したのですが、私の浅はかな心配はまさしく杞憂に終わりました。 見かけの弱々しさとは逆に、話しぶりは非常に力強く熱っぽいものでした。中国で育ち、最近はフラ ンス在住ということもあって、海外から最近の日本を見ていると心配で・・・もし再び中国と日本の民衆同士が戦うようなことになったら耐えられません。死んだほうがましです!  
日本国憲法、特に9条は、決して日本人だけのものではない。幾多の犠牲の上に形作られた平和への願いであり、強い決意。それをあっさりと捨て去るようなことを許してはいけない。「憲法改正」は 国内問題ではなく国際問題なのだ。 ヨーロッパではブッシュの戦争に対して大きな抗議行動が起こっている、それに比べて日本の動きは本当に心もとない限り。経済だけでなく全ての面で日本は元気がない。 しかし1952年から53年当時、杉並区の主婦が始めた原水爆禁止の署名運動は2000万人もの大きな広が りを作り出した。民衆には力がある。諦めないで、憲法「改正」を許さない大きな動きを作り出しま しょう・・・。


満員の会場、参加者の多くは中高年、しかし若い人の姿も結構目に付きました。日高さんファンの私の勝手な感想ですが、日本の良心ともいうべき日高六郎さんらしい、そして聴衆も日高ファンらしい、静かな中にも熱い思いに満ちた講演会だったなあと思いました。
 
(2005.8.2 坂本 洋)


ウガンダから来たアルマンシさん
2年前札幌でDPI(Disabled People International)世界障害者会議があり、世界各国から千人を超える障害者が参加しました。その中の一人ウガンダのアルマンシさ ん(48歳)が障害者の就労実態を知りたいと再来日。1週間の関西視察を終えて最後の一日は京都へ案内することになりました。 ポリオの重い後遺症で今は松葉杖で歩いておられるのですが、やがて車いす生活になると聞いていました。

高速をおりてまず東寺に着き、車窓から見るだけでいいかと思ったら、五重の塔まで歩いてみたいと言われてびっくり。続いて銀閣寺でも修学旅行生でごった返す中をご自分のペースでゆっくり歩いて回られました。金閣寺に着い たのは閉館5分前、庭の拝観に30分かかること、石段が多くて危険ではと説明したのですが入りたいと言われました。砂利道や石畳を松葉杖を使って慎重に歩まれるのを私は少し離れて見守るだけでした。 

帰り道、フイルムが一枚残っていることを告げると記念写真を撮ろうと通りがかりの外国人に自ら申し出されて、ぎこちなく肩を組んでこられました。私はハッとしたのですが、ようやく打ち解けてくださったのだと感じてうれしい表情で収まりまし た。その後お土産は買われますか?と聞くと、「いりません、これで十分です」と拝観チケットの半券とパンフレットをポケットから出されました。私は恥ずかしいような気分になりました。 ウガンダでは障害者は栄養失調でみんなより早死にすること、就労より生き残ることが先決であること、そして飛行機代を出し合ってくれた仲間に京都へこれたことを報告すると淡々と話されました。 

無口で無表情なのは旅の疲れからだけではないようですが、松葉杖を頼りにゆっく り、しっかり歩まれた姿を、今は尊く懐かしく思い出しています。 
(2005.6.8 楠本悠紀子)



おじいさんからの便り
二十歳を過ぎた頃、おばあさんが仏壇の引き出しから数枚のハガキを出して、「見てみ」と言って私に手渡した。そのハガキはセピア色に変色していた。やさしい字体で、「こちらは変わりありません。あなたはどうか、からだに気をつけて過ごしてください。娘を頼みます。」 南方の国で戦死したおじいさんからの便りだった。 戦地でおばあさんを心から心配している様子が文面から感じられた。
おばあさんは戦後メリヤス工場を復興して、家族や従業員のために人生の全てを費やした。一人の女性としての幸せは胸の中に仕舞い込んで・・・。
戦争さえなかったら・・・ 
今、この年になっておばあさんの悲しみがひしひしと伝わってくる。
(2005.6.10 田坂百合子)



私のいちばん星
― 真砂ナス 数アル星ノ 其中ニ  吾ニ向ヒテ 光ル星アリ ―
これは、4年前に母が急逝したとき、叔母が小さな色紙に書いてくれた詩です。当時は夜空を見上げては「どの星だろう」と探したものです。その後、悲しみも徐々に癒え、星を見て涙することもなくなりました。
今では夜空の中に「いちばん星」を探します。私たちが願いを届ける平和の星。それはきっと世界中のどこからも同じように見えているでしょう。イラクからもアフリカからも。世界の空はつながっているのですから。
私たちのこの小さな活動も、きっと世界の人たちとつながれるはず。そう信じてあきらめずにやっていこうと思います。
(2005.6.11 筒井百合子)


☆に願う
「お母さん、この子が大きくなるまで地球は大丈夫だろうか」
生まれたばかりの赤ん坊をみて息子がそういったとき、
私は一瞬胸をつかれて喉が詰まった。
「大丈夫でしょう。あなたが生まれた時、私もそう思った。
でもあなたは立派に育って子どもを持つまでになった。
問題は次々と出てくるだろうけれど、人間なんとか知恵を出し合って
解決していくと思うわよ」
本当だろうか。人間が人類を滅ぼす時が迫ってきてはいないだろうか。
星よ!いちばん星よ! そこからいつも私たちを見守っていてね!
たちが勇気と知恵を結集できるように!
(2005.6.12  高宮みか)


足音
戦争と聞いてすぐ思うことは、どうしても戦死した父と 若くして夫を失った母のことです。母から聞いたことも含めていろいろな出来事があるのですが、一番最初に頭に浮かぶのは、やはり父の帰りを待っていた母のことです。

 
8ヶ月の身重の体だった母は、戦争に行く兵士と見送る家族でごった返す大阪駅まで送っていくのはためらわれて、桜井駅(阪急箕面線)の踏み切りのところまで親戚と一緒に父を送って行き自分だけ帰宅したのです。まさかそれが最後になると思いもしなかったそうです。1944年8月のことでした。そして10月に私が生まれました。召集の時、真木と書いて女の子だったら「まき」、男の子だったら「まさき」と言い遺していきました。


敗戦から2年間、母は父の生死が分からないまま、帰りを待ち続けました。夜になると足音が「こつこつ」と聞こえたように思って慌てて玄関に出ると誰もいなかった、そんな毎日だった、と母から聞かされた時、切なくて涙がこぼれましたが、それは今も変わりません。


父は、1944年11月、日本から出航して3ヶ月かかってフィリピンのどこかの港に到着、3日間不眠不休で歩き続けてマニラにたどり着き、そこからレイテ島へ行く輸送船に乗ったその日に撃沈されたそうです。戦局は末期的な段階で、生きて帰る可能性は殆どなかったわけです。父は33歳でした。
私は子どもの頃、海の底に沈んでいる父を想って苦しくて悲しかったことを思い出します。「戦争で幸せになる子どもはいない」というチラシの見出しは心打つ言葉でした。

本当に「戦争はイヤッ!」ですね。

(2005.6.15  鵜川まき)